白髪を“味方”にするという生き方:“老いの象徴”というより、“積み重ねの証拠”

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白髪を“味方”にするという生き方:“老いの象徴”というより、“積み重ねの証拠” 健康

気がつけば、髪の半分が白くなっていた。
「そろそろ染めないとな」と何度も思ったけれど、結局、手を伸ばすことはなかった。
理由を聞かれても、明確な答えはない。

面倒くさいというのもあれば、どこかで「まあ、これが今の自分か」と納得してしまったのかもしれない。

若い頃は、“老けて見られる”のが嫌だった。
白髪が一本見えるだけで、抜いたり隠したり、必死だった。
でも、50代になった今は、鏡の中の白髪を見ても、それほど動じない。
むしろ、「この一本にも、いろんな時間が詰まってるな」と思えるようになった。

白髪は“頑張ってきた証”みたいなもの

サラリーマンとして、家庭人として、誰かの上司として。
いろんな役割をこなしてきた年月の中で、白髪は確実に増えた。
徹夜明けのプレゼン、家庭でのちょっとした喧嘩、子どもの受験。
そのどれもが、今となっては懐かしくもあり、誇らしくもある。

だから、白髪は“老いの象徴”というより、“積み重ねの証拠”だと思っている。
しんどい日々もあったけど、それがちゃんと髪に刻まれているなら、それも悪くない。
「お前、苦労してきたな」って髪が語ってくれているような気がする。

理想の白髪のおじさん

理想の白髪のおじさん

染めることをやめたら、気持ちも軽くなった

最初に白髪染めをやめたのは、たぶん10年前くらい。
きっかけは、染めた直後の自分がどこか“作り物”みたいに見えたからだ。
確かに若くは見える。けれど、なんとなく「無理してる」ようにも感じた。

――なんて、少し格好つけたことを言ってみたけれど、
正直なところ、本当の理由は「節約」だった。
月に1回、美容院で染めてもらうたびに、10,000円と出ていく。
「この出費、意外とバカにならないな」と思ったのが本音だ。

それ以来、「まあ、自然でもいいか」と開き直って、染めるのをやめてみた。
結果的に、それが“自分らしさ”につながるとは、当時は思いもしなかった。

最初のうちは、周りの反応が少し気になった。
「老けたね」と言われたらどうしよう、と。
でも、意外にも誰もそんなことを言わない。
不思議なもので、気持ちまで軽くなった。
「ありのままでいいか」と思えるようになってから、朝の支度も、心の準備も、だいぶラクになった。

手入れを怠らないことは、“自分を大事にする”こと

白髪を染めない代わりに、手入れには少し気を使うようになった。
シャンプーは地肌に優しいものを選び、週に数回はトリートメントをする。
ドライヤーの前にオイルをつけるようにもなった。
若い頃より、むしろ髪に気を使っているかもしれない。

これも、見た目を保つためというより、「自分を丁寧に扱う」ための習慣になっている。
白髪だからこそ、清潔感を保つことが大事だと気づいた。
無造作と無頓着は違う。
“自然体”を選ぶなら、それなりの手入れが必要だ。

「若さ」よりも「清潔感」

50代になって思うのは、若く見えることよりも、清潔に見えることのほうがずっと大事だということ。
髪に艶があり、整っていれば、白髪でも好印象に映る。
逆に、ボサボサで不衛生なら、黒髪でもだらしなく見える。
つまり、白髪かどうかより、どう“整えるか”が大事なのだ。

美容院でも「白髪を隠すカット」ではなく、「白髪が映えるカット」をお願いするようになった。
ほんの少しのこだわりで、印象は驚くほど変わる。
今は、白髪を「隠す対象」ではなく、「整える素材」として楽しんでいる。

白髪の自分を受け入れたら、他人の目も気にならなくなった

人は不思議なもので、自分を認められるようになると、他人の評価が気にならなくなる。
かつては「老けて見られたら嫌だ」と思っていたけれど、今では「それが今の俺だ」と自然に言える。
白髪を隠していた頃の方が、どこか自信がなかった気がする。

今の自分には、白髪もシワも、少しの貫禄もある。
それを受け入れることで、心まで穏やかになった。
“頑張って若く見せる”より、“無理せず心地よく生きる”方が、自分には合っていると思う。

白髪は「隠すもの」じゃなく、「語るもの」

同年代(1970年代)の仲間へ

最近、同年代の男たちと飲むと、話題の半分は健康か、老いの話だ。
「最近、髪が減ってきた」とか「白髪が増えた」とか。
みんな、同じように年を重ねている。
でも、よく見ると、白髪を活かして渋くなっている人も多い。

“老けた”というより、“落ち着いた”という表現が似合う年頃だ。
焦らず、自分のペースで生きればいい。
白髪があることで、人生の深みが出るなら、それも悪くない。
年齢を重ねることは、劣化ではなく、熟成なのだ。

結論|白髪は「隠すもの」じゃなく、「語るもの」

若い頃のように、何かを“足して”魅せる時代は終わった。
これからは、余計なものを“削って”いくほうが、ずっと美しい。
白髪はその象徴のようなものだと思っている。
ありのままに、自然体で。
その中にこそ、これまでの人生の色が見える。

「老けたね」と言われても、笑って「そうかもな」と返せる余裕。
それが、50代のかっこよさなんじゃないかと思う。